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ー記録ー


      原爆投下に影響を与えたH.G.ウェルズ   

かつてトランプ・タワーにも入居していて
民主党支持者でヒラリークリントンとオバマを支持、寄付をしている
2005年に大々的に宣伝されたスピルバーグ映画
「宇宙戦争」の原作者はH. Gウェルズだった。
私はこの映画を見て人間の生き血を吸い尽くすというシーンが何度かでていて
大変気分が悪くなったのを覚えています。
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【Wikipedia】ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells, 1866年9月21日 - 1946年8月13日)は、イギリスの著作家。小説家としてはジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」と呼ばれる。社会活動家や歴史家としても多くの業績を遺した。H・G・ウエルズ、H.G.ウェルズ等の表記がある。
❐社会活動 第一次大戦後、戦争を根絶するために国際連盟の樹立を提唱し、ワシントン会議に出席。『新世界秩序』では、全ての国家に人権の遵守と軍備の非合法化を訴えた。また、母性保護基金、糖尿病患者協会、新百科全書、人権宣言などの運動を行なった(後述)。政治家との交流としては、ウッドロウ・ウィルソンへの直談判、ウラジーミル・レーニン、フランクリン・ルーズベルト、ヨシフ・スターリンとの会見などを行なった。
❐原子爆弾
小説『解放された世界』は、原子核反応による強力な爆弾を用いた世界戦争と、戦後の世界政府誕生を描いた。核反応による爆弾は、原子爆弾を予見したとされる。ハンガリー出身の科学者レオ・シラードは、この小説に触発されて核連鎖反応の可能性を予期し、実際にマンハッタン計画につながるアメリカの原子爆弾開発に影響を与えた。

❐国際連盟
第一次世界大戦中に論文『戦争を終わらせる戦争』を執筆。大戦後に戦争と主権国家の根絶を考え、国際連盟を樹立すべく尽力した。しかし、結果的に発足した国際連盟はウェルズの構想とは異なり国家主権を残していたため、『瓶の中の小人』という論文で国際連盟を批判している。のちに発足した国際連合も同様に批判した。

❐新百科全書運動
世界平和の基盤となる新世界秩序のための知識と思想の集大成として、1920-30年代に新百科全書運動を展開する。これに関する著書『世界の頭脳』においては、書籍の形態をとらない世界規模の百科事典を構想し、現在のウィキペディアの構造を予言していたとも言われる。

❐人権宣言
第二次世界大戦の勃発に触発され、1939年にウェルズは『新世界秩序』で概略を述べていた「人権宣言」についての書簡を『タイムズ』とルーズベルトに送る。この人権宣言と、それを基に1940年に作成されたサンキー権利章典は、1941年1月6日のルーズベルトの一般教書の中の「四つの自由」を包含しており、さらにのちの世界人権宣言などに影響を与えたとされる。

❐日本国憲法
ウェルズは日本国憲法の原案作成に大きな影響を与えたとされる。特に日本国憲法9条の平和主義と戦力の不保持は、ウェルズの人権思想が色濃く反映されている。

❐世界政府
ウェルズの最も一貫した政治的理想は世界の国家でした。 彼は自伝で、1900年以降、世界国家は不可避だと考えていたと述べた。 彼は国家が科学を発展させ、国家主義を終わらせ、人々が誕生よりもむしろメリットによって進歩することを可能にする計画された社会であることを構想した。 ウェルズの1928年の本「The Open Conspiracy 」は、貧困や戦争などの問題を取り除くために働く、科学的エリートによって支配される「世界共通」を主張すべきだと主張した。 1932年、ウェルズはオックスフォード大学の Young Liberalsに 、 漸進的指導者は独裁主義者の主張に対して「熱狂と自己犠牲に挑戦する」 リベラルな ファシストにならなければならないと語った。 1940年に、ウェルズは、世界政権がどのように設立されるかについての彼の計画を概説した新世界秩序という本を出版した。 ウェルズは新世界秩序において、そのような政府の設立には長い時間がかかり、断片的な方法で創造される可能性があると認めました。 
          
これが レオ・シラードに影響を与えたとされ
広島・長崎を予見したといわれている本。
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https://www.overdrive.com/media/1541347/the-world-set-free


❐The World set Free 邦題:「開放された世界」のあらすじ
石炭,石油が枯渇し,原子力の開発によって大量解雇など世界経済の混乱がつづく1950年代.局地的な紛争が世界戦争へと発展,原爆投下によって大惨事がひきおこされる.そして,戦争と国家から解放された新世界秩序に基づく,人権による世界国家成立への動きがはじまる…1914年の時点で今日の核戦争の危険性を予見した書.

Wikipedia H・G Wells
ウェルズの原子物理学の知識は、 ウィリアム・ラムゼイ 空気中の希ガス元素の発見と周期律におけるその位置の決定)、 アーネスト・ラザフォード  原子物理学の父/元素の崩壊、放射性物質の化学に関する研究)、 フレデリック・ソディー(原子壊変説・アイソトープの発見)から得た。 ウェルズの小説は、物理学者レオ・シラードが中性子が発見された同年、1932年にこの本を読んでいたため、核兵器の開発にも影響を与えた可能性があります。 1933年にレオ・シラードは中性子連鎖反応の概念を想起し、1934年に特許を申請した。

ソディの研究と放射性物質に関する新たな知見をわかりやすく紹介した評論は、ハーバート・ジョージ・ウェルズの小説『解放された世界(英語版)』(1914年)に大きなインスピレーションを与えた。この小説は未来に起きる長期の戦争で複葉機から投下される原子爆弾が描かれていることが特徴で、混乱から平和な社会が出現する内容である。ソディは著書『Wealth, Virtual Wealth and Debt(富,仮想的な富そして負債)』(1926年)においてウェルズの『解放された世界』を称賛している。ソディはまた、放射性物質のプロセスがおそらく恒星の原動力であろうと述べている。

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     ウェルズの著書:新世界秩序     

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Wikipedia 新世界秩序New World Order いう用語自体は第一次世界大戦後頃から英米の政治家によって多用されるようになった。公式で確認されている中でも、国際連盟の設立とベルサイユ体制の構築によって大国間の勢力均衡が大きく変化したことを指してアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が新世界秩序という用語を使っている。
その後、第二次世界大戦の悲惨な帰結を見たウィンストン・チャーチルが破滅的な世界大戦を避けるには国民主権国家を廃絶し世界政府の管理による恒久的な平和体制の実現が不可欠であるとして、この言葉を使った。
SF小説家で歴史家としても著名なH.G.ウェルズは国家の存在を認める国際連盟を批判し、主権国家の完全な根絶と、高級技術官僚や少数のエリートによる世界統一政府を通じた地球管理を訴え、1940年に『新世界秩序』(New World Order)を出版しその持論を述べた。
ビル・クリントンの大学時代の恩師で、戦略国際問題研究所の拠点・ジョージタウン大学国際学部教授のキャロル・キグリーは1966年に1,300ページにも及ぶ大著『悲劇と希望』(Tragedy and Hope)を出版し、新世界秩序の世界像を書いている。キグリーはこの著書の中で各国の文明史・政治史を詳細に分析し、1648年以降のウェストファリア体制 (独立した主権国家同士による勢力均衡体制) を『悲劇』とし、イギリス・アメリカを拠点とする国際金融資本による世界統治を『希望』として描いた。この著書は出版当初はほとんど反響はなかったが、後に陰謀史観のコミュニティに大きな影響を与えた。
この用語が陰謀史観のコミュニティだけではなく一般にも広く知られるようになったのは、1988年12月7日にソビエト連邦指導者のミハイル・ゴルバチョフが、全世界に向けて行った国連演説がきっかけである。また1990年9月11日にジョージ・H・W・ブッシュ大統領が湾岸戦争前に連邦議会で行った『新世界秩序へ向けて(Toward a New World Order)』というスピーチでアメリカでも有名になった。その他に、ヘンリー・キッシンジャー、ビル・クリントン、トニー・ブレア、ゴードン・ブラウン、ジョージ・ソロス、デイビッド・ロックフェラーなどがこの語を使ったことで知られる。2013年4月5日には、アメリカのジョー・バイデン副大統領が、アメリカ輸出入銀行(Export‐Import Bank of the United States)で開かれた会議で、
The affirmative task we have now, is to actually create a new world order, because the global order is changing again…
…世界秩序が再び変わりつつある中で、我々が今抱えている肯定的な課題は、実際に新世界秩序を創造することである。と発言した。


 H.G.ウェルズー 社会主義ーフェビアン協会 

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http://www.wakeupkiwi.com/The-Conspiracy-to-Rule-the-World-2.shtml
カメはファビアン・ソサエティの象徴であり、
社会主義の漸進的な拡大を目標としています。
上記画像、羊の服を着た狼は、元の紋章であり
否定的な意味のために後に放棄された。

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H.G.ウェルズ/フェビアン協会公式サイト:http://www.fabians.org.uk/

”ファビアン・ソサエティは革命的な転覆によってではなく、民主主義における漸進的かつ改革的な努力を通じた民主社会主義の原則を進めることを目的とする英国の社会 主義組織です。” ” 1900年の労働代表部委員会の創設組織の1つとして、それから成長した労働党に重要な影響を及ぼすとして、ファビアン協会は英国の政治に強力な影響を与えた。第三世界の将来のリーダーとなる多くの者がフェビアン思想に感化された。特に、インドのネールは、フェビアンの社会民主主義に基づき、人間性の5分の1のために経済政策を組み立てた。”20世紀を通して、労働党に常に影響力をもっていた。労働党の党首およびイギリスの首相となったラムゼイ・マクドナルド、クレメント・アトリー、アンソニー・クロスランド、リチャード・クロスマン、トニー・ベン、ハロルド・ウィルソン、トニー・ブレアらがフェビアン協会のメンバーであった。ゴードン・ブラウンもその一員である”

   
日本語版Wikipedia:フェビアン協会
英語版Wikipedia:フェビアン協会

 ウェルズは優生学支持者 

社会主義と同時に優生学を支持するウェルズは、社会主義団体フェビアン協会に参加すると同時に、著名な優生学支持者の一人だった
HG Wells: Darwin's Disciple and Eugenicist Extraordinaire
by Dr. Jerry Bergman on December 1, 2004
ウェルズは、地球を「劣った」人種や民族から排除する効果的な方法として、殺害だけでなく滅菌と避妊も提唱しました。 ウェルズは、進化は、それ自身では、
「進歩的」ではなく、教育されたエリートによって「指示」される必要があると信じていた。 このため、優生プログラムの確立に積極的に取り組んだ。

https://answersingenesis.org/sanctity-of-life/eugenics/hg-wells-darwins-disciple-and-eugenicist-extraordinaire/

 ウェルズは、ミニチュア戦争ゲームの父 

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ウェルズは、戦争ゲームをするためのより構造化された方法を模索し、 Floor Games (1911)、 Little Wars (1913)の順に書いた。 リトルウォーズは、最初のレクリエーション戦争ゲームとして今日認められており、ウェルズはゲーマーや愛好家によって「ミニチュア戦争賭博の父」とみなされています
Wikipedia:H.G.Wells LittleWars Floorgames

  ウェルズ、フリーメイソン説・三百人委員会 

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❐HGウェルズはフリーメイソン(Freemasonry)という説があったがブリティッシュコロンビアのグランドロッジ公式サイトではHGウェルズがメイソンメンバーでないと否定している。秘密結社のためフリーメイソンの公式サイトにこの人物はメンバーでないとわざわざ書かれてるとそれ以上追及はできない。
http://freemasonry.bcy.ca/biography/index.html
http://freemasonry.bcy.ca/biography/wells_h/wells_h.html

❐HGウェルズが、秘密組織・三百人委員会(Committee of 300)の最高幹部の知識人であるという説は元英国情報将校ジョン・F・コールマン博士の本からきているようですがこの本を読んでおらず詳細不明。
http://www.ohtaryu.jp/blog/old-articles/j-1215622391.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%99%BE%E4%BA%BA%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A


  ウェルズに影響を受け原子爆弾開発に関わったレオ・シラード  

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”シラードは、SF 作家 H・G・ウェルズの大ファンとして知られ、1920年代のベルリン在住時には彼の小説をドイツ語圏に紹介することに尽力した。特にこの時期に発表されたウェルズの小冊子『開かれた策略』(The Open Conspiracy, 1928年)は、世界の政治的状況とその未来に対し強い関心を持ち続けた彼に大きな影響を与えたのではないかと指摘されている。この小冊子では、世界のかつてない変化に対応して、科学的精神を持った多くの集団が国家の枠組みを越え戦争を廃絶させる世界共同体の創設をめざして活動するための「策略」が議論されていた”

”核軍備管理 シラードはH・G・ウェルズと同様に世界政府 (world government) の実現や世界法の制定による戦争の廃絶を理想とした。シラードにとって冷戦期の問題は、全面核戦争を起こすことなく戦争を廃絶させる国家の上位組織を作り上げる道を見出せるかどうかということだったが、晩年までその見通しは暗いものと考えていた。シラードはその原因をナショナリズムと信頼の欠如とに見ていた。こうした理想の一方で、戦後の核開発競争に抗してなされたその時々の主張はプラグマティックで、またしばしば奇抜なものであった。シラードのアメリカ政治に対する分析は多元主義的なものであり、ニューレフトの急進主義や、理想主義的な平和主義、また政府のシンクタンクとも距離をとり、その信は飽くまで科学者コミュニティーの合理主義に置かれた。しかし、戦後の他の軍縮活動と同じく、いずれの活動も冷戦の大きな政治的力の前で決定的な役割を果たすものとはならなかった”

”生物学の道をほとんど選びかけていた1933年9月、シラードはロンドンで著名な物理学者アーネスト・ラザフォードが行った講演の新聞記事を眼にした。ラザフォードはそこで、原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事 (moonshine) であると説いていた。この記事は、彼にベルリンで読んだウェルズの SF『解放された世界(英語版)』(1914年)を思い起こさせた。そこでウェルズは逆に原子エネルギーの開発とそれによる核戦争の勃発を予見していた。

これらをきっかけにシラードは原子エネルギーについて終始考えを巡らせるようになった。ある日、ロンドン・サザンプトン通りの交差点で信号待ちをしている間に、前年発見された素粒子中性子による連鎖反応の理論的可能性に不意に思い至った。電気的に中性な中性子は容易に原子核に衝突させることができ、もしそれによって複数の二次中性子を放出するような種類の原子が存在すれば、莫大な核のエネルギーが放出されることになる。

シラードはすぐさま核エネルギーに関するいくつかの特許を取得した。後には、核連鎖反応のアイデアがナチス・ドイツに洩れることを防ぐために、この特許をイギリス陸軍に譲渡し秘密扱いにするよう申請したものの拒絶され、海軍へと同じ申請を行った。彼はいくつかの根拠からベリリウムやインジウムなどを連鎖反応を生成する可能性のある有力な候補とみなし、病院の施設を借りて実験を行った。 実験によってベリリウムは中性子源として利用できることが判明したものの期待した連鎖反応を起こさないことが分かった。他の元素での実験を企図したものの、亡命先でしっかりした地位がなかったため資金難から十分な実験を行うことはできなかった”
レオシラード(日本語版)
Leo Szilard(英語版)

 原爆研究開発の発端になったとされる 
  アインシュタイン=シラードの手紙 

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1939年、物理学者アインシュタインからフランクリン・ルーズベルト大統領宛に送られ、アメリカの原子爆弾開発のきっかけのひとつとなったことで知られる手紙について述べる。 この手紙に特に定まった呼び名はなくアインシュタインからルーズベルト大統領への手紙(または書簡、信書など)のように説明的に参照されることが多い。 物理学者レオ・シラードの名が付されることがあるのは、この手紙の作成をシラードが依頼したことによる。、この手紙から8か月後に、エンリコ・フェルミとシラードは政府から資金的援助を受けることとなったが、アメリカ政府がマンハッタン計画によって本格的な原子爆弾開発に取り組むようになるまでには、これ以降3年を要している。 アインシュタインは晩年この手紙に署名したことへの後悔の念を吐露した。
1  アインシュタイン=シラードの手紙
2  シラードの請願書

アインシュタインとシラードは良識派でマンハッタン計画には全く関与していない、その手紙が広島・長崎に原爆投下に至るとは全く知らなかったというのが通説のようですが、アインシュタインがドイツからヨーロッパ各地を移動して最終的にアメリカ人に帰化、アメリカ海軍兵器局の顧問に就任している

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なぜ、原爆投下の翌年に世界政府樹立を提唱するのか?
謝罪、核廃絶、戦争撲滅、という段階を経てならわかるけど、いきなり世界政府樹立提唱(世界連邦運動)という異様な動きをみると、日本への原爆投下計画を最初から知っていて世界政府樹立が目的だったのでは?…と思えてきますね。

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日本への原爆投下マンハッタン計画の指揮官オッペンハイマーと
1945年終戦、1948年には、湯川秀樹(世界連邦運動5代目会長)はオッペンハイマーからプリンストン高等研究所の客員教授として招聘を受けている。ニュージャージー州にあるこの研究所は、当時世界のトップクラスの研究者を集めており、アインシュタインも終身研究員の一人であった。
ちなみにアインシュタインとHGウェルズとの写真、HGウエルズと仲よかったチャールズ・チャップリンがハリウッドにきたアインシュタインをエスコートしてるかのような写真もある。

HGウェルズとアインシュタインの画像➟ その1 その2
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その他の画像容量でUPできないのでリンク貼ります

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シカゴ大学でシカゴパイル1号の建設(歴史上初の原子炉を記念して撮られた写真)
1人コート姿のシラード
Wikipedia シカゴ・パイル1号(Chicago Pile 1、CP-1)とは、歴史上初めて臨界に達した最初の原子炉の名称である。最初の原子炉CP-1が組み立てられた。原子炉は最初の計画ではシカゴ郊外のアルゴンヌの森の中に建設されることになっていたが、建物の完成を待てなかったため、シカゴ大学のフットボール場のスタンドの下を利用した建設を急いだ。1942年11月4日に炉の組み立てが始まり、一か月後の12月2日に試運転が行われた
CP-1は原子爆弾材料のプルトニウム239生成用原子炉を設計するための実験炉として開発された。このCP-1の成果を元につくられた原子炉で生成したプルトニウムは1945年8月9日、長崎に投下された原爆に利用され、数万人が死亡した。

最初の原子炉CP-1が組み立てられた。原子炉は最初の計画ではシカゴ郊外のアルゴンヌの森の中に建設されることになっていたが、建物の完成を待てなかったため、シカゴ大学のフットボール場のスタンドの下を利用した建設を急いだ。1942年11月4日に炉の組み立てが始まり、一か月後の12月2日に試運転が行われた
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=16-03-03-12

 ウェルズの訳者 浜野輝が日本国憲法への影響について書いている

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ウェルズらの纏めた人権宣言の「サンキー権利宣言」と日本国憲法の対比を考えると、戦争放棄は幣原や裕仁の発案ではなく(または、発案があったとしても)ウェルズから頻繁に手紙のやりとりをしていたルーズベルト、そしてマッカーサーへと引き継がれた原案から存在していたと考えられるのである。しかし、マッカーサー・ノートにはウェルズの人権思想とは関係ない天皇制度の囲い込みが当初から存在し、そして、原案にあったいくつかの権利に関する条項は削除され、自衛戦争の放棄もカーティスが削除してしまった。このために吉田はトルーマン、マッカーサーの戦力の回復要求をはねつけきれず警察予備隊が作られ、自衛隊が発足することになってしまった。この日本国憲法が発布される前にウェルズは他界した
http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/187.html
https://www.nippyo.co.jp/shop/author/2809.html

憲法改正は最終的にこれが目的なのでしょう。
シカゴ大学世界憲法予備草案➟
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%86%B2%E6%B3%95%E4%BA%88%E5%82%99%E8%8D%89%E6%A1%88

今も原爆投下の多大な被害にあいながら”核の傘の下”で守られていると
刷り込まれている日本において、憲法を改正すれば今より国家の主権をなくす結果に。原爆研究開発したシカゴ大学が何故憲法を草案しているのか?
今も比較憲法プロジェクトをシカゴ大学教授とGoogleがやっているのか?
をみれば見えてきます。続く>>


2015年マンハッタン計画の施設、国立歴史記念公園に指定される。

Wikipedia:マンハッタン計画( Manhattan Project)は、第二次世界大戦中、枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。なお、計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたため、一般に軍が工区名をつける際のやり方に倣って「マンハッタン・プロジェクト」とした。最初は「代用物質開発研究所 (Laboratory for the Development of Substitute Materials)」と命名されたが、これを知った(後にプロジェクトを牽引することになる)レズリー・グローヴスが、その名称は好奇心を掻き立てるだけであるとして新たに提案したのが採用されたものである

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一番古い新聞をもっているのは退職したマンハッタン計画のフォトグラファーのエド・ウェストコット

James Edward Westcott Wikipedia
 マンハッタン計画と冷戦時にテネシー州 オークリッジで米国政府のために働いた写真家。Manhattan Projectの科学者J. Robert Oppenheimer 、 Arthur Compton 、 Glenn Seaborg 、 Vannevar Bush 、 Ernest O. Lawrence 、 James Bryant Conant 、米国陸軍将軍など多くの著名人の写真資料を作成しました。 1945年6月、ウェストコットは再び陸軍従業員になり、戦後、彼は1946年の設立以来 、 米国原子力委員会 (AEC)に就職した。  1966年に彼は近くのAEC本部に就任したワシントンDC 、 ジャーマンタウン(メリーランド州 ジャーマンタウン )で、1977年に引退するまで、AECおよびその後継機関( エネルギー研究開発管理局およびエネルギー省 )に勤務した。彼は米国全土の原子力発電所を撮影した。



マンハッタンプロジェクト国立歴史公園の紹介動画
ハンフォードB原子炉の前で語っている↓

1:20~ミリタリースタイルの子供が歌を歌う。

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11月11日のニューハンプシャー州ロスアラモスにある新しいマンハッタン・プロジェクト国立歴史公園の開会式を記念して、記念碑的なボタンがコミュニティのメンバーに配られる

長崎原爆のファットマンを製造したB原子炉
装置を子どもたちが直接触れられるようになっている。
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上記サイトから引用 ”ワシントン州のハンフォード・サイトのB原子炉の歴史的建造物は、世界で初めてフルスケールのプルトニウム製造用原子炉でした。第二次世界大戦中の極秘マンハッタン計画の一環として創設されたBリアクターは、1945年7月にトリニティ・テスト(世界で初めて核爆発)に使用されたプルトニウムを生産したほか、1945年8月に日本の長崎に落下した原子爆弾それは日本の降伏と第二次世界大戦の終結に貢献した。原子炉はデュポン社がシカゴ大学のEnrico Fermi博士とテネシー州オークリッジのX-10 Graphite Reactorの試験による実験設計に基づいて設計され、建設された。 B原子炉の建設は1943年10月に始まり、燃料は1944年9月13日にB原子炉に装荷された。
B原子炉は、1976年に米国機械学会によって国立歴史的機械工学のランドマークと命名され、1992年に国立史跡に登録され、1994年に国家歴史土木工事のランドマークに指定され、国家歴史的ランドマークB原子炉は2009年から年間公衆ツアーに開放されており、毎年10,000人以上の来館者を獲得しています。この施設は全世界の50カ国以上から80カ国以上のお客様からツアーを受けています。
B原子炉ツアーは無料で、世界中のあらゆる年齢層の訪問者に開放されています。カメラは大歓迎です。2016ツアーシーズン 2015年11月にマンハッタン・プロジェクト国立歴史公園が創設され、国立公園局と提携して、エネルギー省は2016年にB原子炉への一般市民のアクセスを拡大した。ツアーシーズンは4月中旬から11月中旬にかけて行われ、 12,500以上のツアー席があります。ツアーは月曜日から土曜日まで提供されます

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観光スポットとして記念写真もある。広島の原爆資料館とは原爆による虐殺と被爆については全く伝えずに寧ろ楽しむ場所にしている酷すぎますね。

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第二次世界大戦中の女性が戦争に軍事工場で働く姿がモデル。戦意高揚のためのプロパガンダのキャラクターRosie the Riveter”のコスプレでマンハッタンプロジェクト国立歴史公園で笑顔で写真を撮る集団


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Rosie the Riveter Wikipedia
”Rosie the Riveterは第二次世界大戦中に工場や造船所で働いていたアメリカの女性を代表する米国の文化的アイコンであり、その多くは軍需品や戦争用品を生産しています。これらの女性は、時には軍事に従事していた男性労働者の代わりにまったく新しい仕事を取った。 ロージー・リベッターは、 フェミニズムと女性の経済力の象徴として使われています。 女性戦争労働者の同様のイメージは、イギリスやオーストラリアなどの他の国でも現れた。 女性の労働者のイメージは政府のポスターのようにメディアに広まっており、商業広告は女性が工場で戦時奉仕のためにボランティアを奨励するために政府によって頻繁に使用された。 Rosie the Riveterは第二次世界大戦中に歌とハリウッド映画の主題とタイトルになった” ”彼女が登場した映画やポスターは、女性が戦争のために働くことを支援、奨励するために使用されていました。”


洗濯物を干しながら上空のB-24を見上げていた主婦が、B-24を生産する工場の労働者となる。様々な工程が既に女性労働者によって置換されていることが示され、(その前提となる)充実した職業訓練・教育の模様が映し出される。
そして当時のヒット曲『Rosie, The Riveter』(ロージー・ザ・リベッター、「リベット打ちのロージー」とでも訳すか?)のメロディーを背景に、まさにリベット打ちの作業 フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーターに携わる女性労働者たちの姿が続く。

”現代史のトラウマ”よりフォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター

ウィメンズマーチはソロス財団からの多額の寄付が公開されていました。

2017年ウィメンズマーチでもこのキャラクターがプラカードとして使われている。
ブログ”umasica”の記事より>>2017年のロージー・ザ・リベッター

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  マンハッタンプロジェクト国立歴史公園を推進してきた団体 
  アトミックヘリテージ財団について調べてみた       

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「アトミック・ヘリテージ財団とパートナーは、10年以上にわたり、マンハッタンのプロジェクトサイトを保存し、公園を建設するために取り組んできました。 国立公園は長い間延期されており、アメリカ人に、今日の世界のためのマンハッタン計画とその複雑な遺産を理解する重要な機会を提供します。
マンハッタン・プロジェクト・パークのサイトは、「人間の世界を永遠に変えた仕事が行われた世界で最も重要な場所の一つです」と、ピューリッツァー賞を受賞した原子爆弾の作家であるリチャード・ローズと財団のメンバー取締役会

https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=http://www.atomicheritage.org/article/manhattan-project-national-historical-park-established&prev=search

 マンハッタンプロジェクト国立歴史公園推進した    
 アトミックヘリテージ財団の役員・顧問一覧      

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顧問及び取締役/諮問委員会/マンハッタンプロジェクトベテランアドバイザー
メンバーの一覧

  マンハッタン計画国立歴史公園を推進            
 アトミックヘリテージ創設者シンシア・ケリー         

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”原爆開発と製造を目指したマンハッタン計画の体験継承をめぐり、米国内で大きな動きがあった。同計画に関係する遺構や施設を国立歴史公園に指定することを定めた法律が昨年12月、成立した。「原爆投下を肯定するのか」と広島と長崎から反対の声が挙がった構想は、被爆70年の節目に現実となる。

法律制定の立役者となったのは、アメリカ合衆国エネルギー省職員だったシンシア・ケリー氏が2002年に設立した核遺産財団。関連施設が相次いで取り壊されるのを目の当たりにし、保存運動へ一念発起したのが財団設立のきっかけだった。ロビー活動で、賛同議員や団体を増やしていった。 

法律化へ、曲折はあった。12年には下院で「原爆の賛美になる」との批判もあり、必要な3分の2の賛成票を得られなかった。13年と今回は、独立した法案ではなく、米国防予算全体の枠組みを定める法案の一部として提出。「三度目の正直」となった。反対はもっぱら財政面からの懸念だったという。 ”
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http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?bombing=%EF%BC%BB%E3%83%92%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%81%AF%E5%95%8F%E3%81%86%E3%80%80%E8%A2%AB%E7%88%86%EF%BC%97%EF%BC%90%E5%B9%B4%EF%BC%BD%E4%BA%A4%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%AC%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%81%AE

   アトミックヘリテージ財団の役員リチャード・ローズ   

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”リチャード・ローズ(Richard Lee Rhodes 1937年7月4日生まれ)は、アメリカの歴史家 、 ジャーナリストであり、 ピューリッツァー賞を受賞した「原子爆弾の誕生」 (1986年)などフィクションとノンフィクションの両方の著者である)、そして最近では「The Bombs of Twilight of the Bombs (2010年)」があります。”
”ローズは、 フォード財団 、 グッゲンハイム財団 、 マッカーサー財団 、 アルフレッド・P・スローン財団からの助成金を授与されました。 ローズは、 スタンフォード大学の国際 安全保障協力センターの加盟 組織です。 また、原子力に関する米上院の証言など、幅広いテーマについてさまざまな講演や講演を頻繁に行っています”

←この人物が助成金を授与されているところ、世界連邦運動のスポンサー(フォード財団・マッカーサー財団)と同じである

”1930年代に核分裂の科学につながった発見から、 第二次世界大戦中の人々と出来事の歴史を物語る、 1986年の著書である「原子爆弾の誕生」
マンハッタン計画 広島と長崎の原爆投下 その多くの栄誉の中で、
900ページの本は、 一般ノンフィクションのピューリッツァー賞、
ノンフィクションの 全国図書賞、そして全国批評家サークル賞を受賞し 、
数十万部を売り上げた 英語だけでなく、十数言語に翻訳されている。
本は歴史家と元ロスアラモス兵器科学者の両方に賞賛された

https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Rhodes

”ハーバードとMITの客員研究員であり、公共テレビのFrontline and American Experienceシリーズのドキュメンタリーのホストと特派員でもあります。 彼の最近の著書、 Hell and Good Companyは、現在、書店にいる。 ローズは、米国と海外の観客に頻繁に講演します。サンフランシスコでプライベートプラクティスの臨床心理学者である彼の妻ジンガー・ローズと、彼はカリフォルニア州ハーフムーンベイの上に住んでいます。 ” http://www.richardrhodes.com/index.html

読売新聞がこの人物に取材している。
真珠湾の話、ジャップという言葉もでてきているしただ核兵器はよくないと日本向けに語っているだけである。

   アトミックヘリテージ財団の顧問にA.R.オッペンハイマーという名前が  
  あったのでJ.ロバートオッペンハイマーとの繋がりがあるのかと思い調べる。 

アトミックヘリテージの一覧↓
A. R.オッペンハイマー、核兵器専門家、
大量破壊兵器に関する問題に関するコンサルタント。
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アンディオッペンハイマーのWikipediaには
ロバート・オッペンハイマーとは繋がりがないと書かれている

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 アトミックヘリテージ財団 J・ロバート・オッペンハイマー本物の親族の記述有り

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"キャサリン・トニ・オッペンハイマー(1944-1977)はアメリカの翻訳者であり、 J.ロバート・オッペンハイマーの娘であった "
"ロバート・オッペンハイマーは1967年にがんで亡くなりました。すぐに、1969年、トニー・オッペンハイマーは、国連の翻訳者としての地位を否定されました。 そのプロセスは、15年前に父親に平準化された共産主義者の罪の多くを浚渫した。 トニーは自分自身が2つの出来事から完全に回復できないことに気づいた。"
"すぐに国連の位置を失った後、そして2回の失敗した結婚の後、Toniは永久にSt. Johnに移住した。 彼女は家族の古いコテージで隠れ家になった。遠くの島には数人の友人がいなかった。 彼女は1977年1月、33才の誕生日の1ヵ月後に自殺した。"

http://www.atomicheritage.org/profile/toni-oppenheimer

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若いころピーターは1941年カリフォルニアで生まれ、父親がマンハッタンプロジェクトのディレクターになったときに両親と一緒にロスアラモスに移住しました。 彼の幼年時代の大部分は、彼の父が上級研究のための研究所のディレクターであった期間、ニュージャージー州プリンストンで過ごしました。
彼はコロラド州の牧場で叔父のフランク・オッペンハイマーと一緒に過ごしました。 彼は1960年代を通して両親と断続的に接触していました。 ロバート・オッペンハイマーが1967年に死亡した直後、ロバートが数十年前に購入したサングレ・デ・クリスト山脈のペロ・カリエンテ牧場に住んでいたニューメキシコ州北部の農村部に永久に移住した。 彼は大工として働き、現在は3人の大人の子供、 ドロシー 、 チャーリー 、エラを抱えています。 彼は密かに住んでいます。

http://www.atomicheritage.org/profile/peter-oppenheimer

オッペンハイマーの孫たちもアトミックヘリテージ財団のインタビューに答えている

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  マンハッタン計画記念公園について            
 原爆投下の正当化や讃美ではないのか。被爆国・日本の懸念  


 マンハッタンプロジェクト国立歴史公園設立の  
 意味についての記事を書く、徳留絹枝という人物 

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”2012年9月に下院で審議が行われた際、民主党オハイオ州選出のデニス・クシニッチ議員は「戦争終結のために原爆投下が必要でないことは当時の多くの米指導者達も事前に知っていた」とし、「広島と長崎で20万人の人々を殺した技術開発を称えることはできない」と主張した。”

”その年の議員選挙でクシニッチ議員が落選し激しい反対はなくなったものの、
2013年は時間切れで法案が通過せず、法律がやっと成立したのは2014年の暮れであった。”

”今回の法案成立の原動力となったのは、非営利団体 Atomic Heritage Foundation(AHF)だった。””設立者代表はシンディ・ケリー、理事リチャード・ローズ”


出典元:「マンハッタンプロジェクト国立歴史公園」の意味 - 徳留絹枝|WEBRONZA

↑ちなみに上記、朝日新聞の言論サイト
WEBRONZAで『マンハッタン・プロジェクト国立歴史公園」
詳しい記事を書いていた徳留絹枝について調べると下記保守系ブログ
で正体が明かされていた。
反日映画【アンブロークン】と反日ロビー団体との繋がり 
徳留絹枝➟河野太郎、岡崎トミ子、マイク・ホンダ・・・

http://brief-comment.com/blog/news/39453/

この徳留絹枝氏はSEALDS署名を募っていたトムギンズバーグと同じく、
外務省所管の独立行政法人「国際交流基金日米センター」の安倍フェロー。
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アンジェリーナ・ジョリーの日本軍に囚われた米軍捕虜を描いたアンブロークン
を推奨していたり、日本軍に捕虜になった米軍こそ正義があるというマイクホンダ
ザ・レイプオブ南京のアイリス・チャンなどとの親交。
反戦が目的ではないマンハッタン国立計画歴史公園については擁護の姿勢、それも国際交流基金=日本の公費で育成されている日本の左派ロビーと繋がっている。
民主党議員/NED ナンシー・ペロシなどとも写真があるようだ。
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やけにマンハッタン国立歴史公園について詳しい記事を書くと
思ったらアトミックヘリテージ財団のメンバー一覧に
徳留絹枝の名前があった。(安倍フェロー)↓
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http://www.atomicheritage.org/about/advisors-and-directors
アトミックヘリテージ財団について調べると色々でてくる…。
反日ロビーとも繋がっているみたいね。

  原爆は必要なかった、原爆による 
 殺戮と人体実験が目的だったのでは。

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【原爆は必要なかった】
ルーズベルトおよびトルーマン政権の上層部は、原爆の数ヶ月間から既に日本が戦争を終わらせる道を必至に模索していたことをよくわかっていた。日本の降伏は、1945年の春にはもう目処がついており、つまり原爆の必要はなかった、とコールズ氏は主張する。 そうであるならば、なぜ原爆は投下されたのか。同氏はその要因について、1)巨額の投資、2)真珠湾の復讐、3)科学的好奇心、4)司令が既に8月以前に決定していた、5)対日開戦を表明したソ連への対抗、などであったと分析する。事実ならば、いずれもやるせない理由である。
原爆は大勢の市民を犠牲にした。それは国際法における戦争犯罪および人権侵害の定義に抵触する行為である。アメリカは戦後、日本やドイツの戦犯を処刑したが、広島長崎の大虐殺を指示した人物は一切お咎めなしのままだ、と同氏は指摘する。

http://newsphere.jp/world-report/20140809-1/

”マンハッタン計画国立歴史公園は、
2020年ごろの本格開園をめざすという”
戦後70年以上たって、反戦が目的でもない。一体、何が目的?
(核の神話:6)米の原子炉博物館、陳列された成功体験
http://www.asahi.com/articles/ASHD16HW4HD1PTIL037.html


   核融合実験装置Zマシンでの未臨界実験   

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Wikipedia:Zマシン (Z machine)は、アメリカ合衆国のサンディア国立研究所が保有する核融合実験装置であり、2016年現在世界最強のX線発生装置でもある。世界各国で行われている核融合研究の主流とは大きく異なる、Zピンチと呼ばれる物理現象を利用した実験装置であり、これによって発生させた強力なX線で物質を爆縮し、熱核兵器の内部と同程度の極度に高温、高圧の条件を作り出すことができる。この方法により、2003年3月には重水素燃料のみで核融合を達成している。この装置はサンディア研究所のパルスパワープログラム (Pulsed Power Program)の一環を成し、その最終目的は慣性閉じ込め方式核融合(Inertial Confinement Fusion : ICF)プラントの可能性の実証とされているが、米国の核兵器備蓄性能維持計画(Stockpile Stewardship Program)の一環として、2006年から2007年にかけての大がかりな改造においてはエネルギー省(DOE)傘下の国家核安全保障局 (NNSA : Stockpile Stewardship Program を実行するために2000年に新設された機関)から多額の資金供給を受けている。
Zマシンは電気を瞬間的に圧縮して巨大エネルギーを発生させ、世界で最も強力なエックス線を放射させることができる実験装置。超高温、超高圧の核爆発に近い環境下で、爆発や臨界を起こさずにごく少量のプルトニウムの状態を確認する。物質が経年劣化によりどう反応するかなどをみている。 

同研究所を管轄する米エネルギー省傘下の国家核安全保障局が1985年に前身となる施設を開設した。現在の装置に全面改良されたのは2007年。保有核の管理計画(SSP)として行っている核兵器の性能維持措置の一環である。

同局はネバダ核実験場の地下施設で行う臨界前核実験をはじめ、SSPに基づく13種類の実験の実施状況を年4回、事後公表している。「核兵器なき世界を追求する」と09年にプラハで演説したオバマ大統領の政権下では、すでにZマシンによるプルトニウム実験を12回、臨界前核実験を4回しており、広島や長崎から抗議の声が上がっている。 
最近では9、10月に計2回、Zマシンでの実験が行われていたことが11月初めに明らかになった。これを受けて松井一実広島市長は同4日、東京の米国大使館を通して大統領あてに抗議文を送付。「今後も核兵器を持ち続ける意志を表したものであり、断じて許すことはできない」などと批判した。被爆者団体や反核団体は原爆慰霊碑(広島市中区)前で同3、5日に座り込んだ。
 
出典元[ヒロシマは問う 被爆70年へ] 米研究所 Zマシン公開 核兵器の性能実験装置 抑止力目的を強調 | ヒロシマ平和メディアセンター
  オバマ政権からZマシーン核実験が開始した  

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Z machine - Sandia National Laboratories 
http://www.sandia.gov/z-machine/
Wikipedia:サンディア国立研究所(サンディアこくりつけんきゅうじょ、Sandia National Laboratories、SNL)は、米国エネルギー省が管轄する国立研究所。ニューメキシコ州アルバカーキとカリフォルニア州リバモアの2箇所に施設がある。 核兵器の開発と管理、軍事科学、安全保障の全分野などについて、国家機密に属する先進的な研究が行われている。現在、研究所施設は政府の財産であるが、管理・運営は請負契約を結んだサンディア社(Sandia Corporation、ロッキード・マーチン社の 100% 出資子会社)が行っている。この運営形態は GOCO (Government - Owned, Contractor - Operated) と呼ばれる。ニューメキシコ州サイトの研究所建屋はカートランド空軍基地の敷地内に有り、訪問者は基地の東側に所在するオフィスで入構証を発行してもらう。世界最大級のプラズマ発生装置Zマシン(Z machine)をニューメキシコの研究所に持ち、この装置による、臨界前核実験に代わって核実験場および爆薬を必要としない新たな核実験が行われている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80

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核廃絶に関する情報を配信する公式サイト

そのサイトの中でZマシン実施についての一覧表ではオバマ政権後
12回核実験=未臨海実験をしている。
 2006年初頭、サンディア研究所はZマシンが
20億ケルビン(20億°C)を超える高温のプラズマの生成に成功したと発表した。太陽の中心温度を凌駕する凄まじいものです
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”プルトニウムの燃焼実験も毎日やっていますが、核兵器の開発とは全く関係ありません」「研究対象はプルトニウムだけではなく、あらゆる物質です」との説明に賛意を表し、「これは明らかに札幌市議会が抗議文を送るような施設ではありません。」との意見を表明している(札幌市はZマシンによる新型核実験に対して2012年10月3日にオバマ大統領への抗議決議を採択している)。
2014年4月5日に朝日新聞は、Zマシンの日本の報道機関への初公開を伝える記事において、「研究所によると、実験では、X線は照射されず、核分裂反応も一切起きない。爆発に近い状態を再現しているわけではないという。」という証言を載せている。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/Z%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3 ※核実験でないと札幌議員と朝日も書いてるそうだが、プルトニウムを毎日使って最終的に一体何が目的なのか。殺傷兵器ではありませんとは書かれていない。

  オバマ、仏でのノルマンディー上陸作戦70周年 
  ガムを噛みながら“原爆投下”映像に拍手     


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「2014年6月、第2次大戦で米英などの連合国軍が当時のナチス・ドイツを撃破する転機となった『ノルマンディー上陸作戦』を記念した70周年記念式典がフランスで行われました。欧州やロシアなど20カ国以上の首相が参加した盛大なイベントで、会場の大スクリーンには日本へ原爆を投下するモノクロ映像も流されました。この時、会場から大きな拍手が湧き起こったのですが、ドイツのメルケル首相は拍手せず、ロシアのプーチン大統領は胸の前で十字架を切って哀悼の意を表していました。ところが、ガムを噛みながら無表情で手を叩いていたのがオバマ大統領。とても原爆投下を悔いている態度とは思えませんでしたね」(在欧特派員記者)

ユーチューブでは今も「ノルマンディー上陸作戦70周年記念式典」の映像が残っていて、なるほど、ぶっきらぼうな態度のオバマがしっかりと映っている。とても広島訪問の際、被爆者と握手し、肩を抱いていた人物と同一とは思えない。

 広島県出身の政治評論家、板垣英憲氏はこう言う。
「オバマ大統領が原爆資料館を訪れた時間は10分。長時間滞在すればいいというわけではありませんが、被爆地の実相を理解できたとは考えにくい。さらに言うと、オバマ大統領が肩を抱いた列席者は、アマチュア歴史家として、被爆した米兵の遺族全員を探す活動をした方です。大統領の本心は分かりませんが、『米国のためにありがとう』という意味もあったのではないか。そもそも、オバマ大統領が広島・長崎の原爆投下を本気で悔いているのであれば、何が何でも保有する核兵器の削減を進めているだろうし、新型開発も承認していないと思います」
 オバマの“三文芝居”に騙されてはダメなのだ。

             オバマ広島訪問 演説全文        

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この時演説した全文をみると、美辞麗句をいれながらも遠回しに、原爆投下は、アメリカの責任 ではないという演説
(よくみると意味深な言い回しもあるけど今回は省きます)


 この一文にあった女性が「私のことではないか」とテレビや新聞に散々出ていた↓
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 オバマ演説「原爆投下の操縦士を許した女性」=近藤鉱子さん   
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近藤紘子(アメリカン大学卒業http://www.peaceful.biz/contents/7-1.html)
❐近藤鉱子さんは立命館とアメリカン大学共同プログラムにも参加
http://www.ritsumei.ac.jp/liberalarts/wp/program/hiroshima.html/
❐アメリカン大学で何度か演説しに来ていたオバマ
2010年6月にアメリカ大統領バラク・オバマが移民政策に関する演説を行った。
2013年アメリカ大統領バラク・オバマが医療や経済に関してクリス・マシューズと対談を行った。
2015年アメリカ大統領バラク・オバマが演説を行った。

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近藤紘子さん プロフィール :1944年11月20日広島生まれ。国内外で講演活動を行う他、日本で行き場を失った子供を海外に養子として紹介する「国際養子縁組」を続けている。「財団法人チルドレン・アズ・ザ・ピースメーカーズ」の国際関係相談役も務めていた。著書に「ヒロシマ、六十年の記憶」(徳間文庫)がある。
    
下記画像は、原爆を投下したエノラ・ゲイの副操縦士ロバートルイスと、
近藤鉱子(旧姓:谷本)の父の谷本牧師

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近藤紘子(旧姓:谷本)さんは毎年、ところどころ破れた小さなピンク色の服を持って生まれ故郷を旅する。それは近藤さん一家が70年前、世界初の原爆投下を生き残った日に近藤さんが着ていたものだ。
谷本氏は1955年の訪米時、ロサンゼルスに招かれ、「This Is Your Life(これがあなたの人生だ)」という米NBCのテレビ番組に出演した。番組は谷本氏の家族を秘密のゲストとして招待。近藤さんは家族とともに父親に内緒で渡米していた。秘密のゲストはもう1人いた。広島に原爆を投下した米軍の爆撃機「エノラ・ゲイ」の副操縦士、ロバート・ルイス大尉だった。
10歳になっていた近藤さんはしばらくルイス大尉を見つめていた。ずっと「悪いやつを蹴っ飛ばしたりかみついたり、たたきたい」と思っていたのに、近藤さんはルイス氏のところに歩いていって、その手に触れた。その直前、近藤さんは、番組の司会者に原爆を投下したあとどんな気持ちだったかと聞かれたルイス氏の目に涙があふれていることに気付いていた。近藤さんの記憶によると、ルイス氏は飛行日誌に「My god, what have we done?
(ああ、私たちはなんてことをしてしまったんだ)」と書き込んだと答えた。
近藤さんは後に牧師となった日本人男性と結婚し、2人の女の子を養子に迎えた。近藤さんは現在、頻繁に日米の各地を訪れ、自らの体験を語っている

 http://jp.wsj.com/articles/SB12433432845575373546004581151283578600362

     近藤鉱子(旧姓谷本)の父親の谷本清牧師      
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谷本 清(1909年 - 1986年9月28日)は、香川県坂出市出身の日本のキリスト教牧師、平和活動家。 ノーモアヒロシマズ運動提唱者
関西学院大学神学部を首席で卒業後、渡米して1940年にエモリー大学大学院修了。沖縄中央教会牧師を経て、1943年に広島流川教会の牧師に就任。1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下の際に、爆心地から3kmの己斐町で疎開作業をしており直接の難を免れるが、広島市内に引き返して救護活動に従事。原爆症により生死の境をさまようが奇跡的に回復。
教会復興に尽力している最中、1946年5月、ピューリッツァー賞作家でもあるジャーナリストジョン・ハーシーの取材を受けたことから、谷本の被爆体験が世界中に紹介され、著書『ヒロシマ』となって大きな反響を呼ぶ。 1948年3月UP通信ルサフォード・ポーツの取材を受け、この記事の中で「ノー・モア・ヒロシマ (No more Hirosima)」が初めて唱えられ、駐留米軍紙を経てアルフレッド・パーカーが平和運動のスローガンに用いて世界に広がった。
1986年に死去。生前の功績を讃え、故人としては異例だが、エモリー大学から名誉神学博士の称号を授与される。その式典には第39代アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターも参列した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%9C%AC%E6%B8%85
 エノラ・ゲイ副操縦士と日本基督教の谷本清牧師引き合わせた 
  ジャーナリスト ノーマン・カズンズ=世界連邦運動の活動家  
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ノーマン・カズンズ(Norman Cousins、1915年6月24日 - 1990年11月30日)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ユニオンシティ生まれのジャーナリスト、
作家。広島市特別名誉市民。
日本基督教団広島流川教会の牧師、谷本清らとともに「精神養子運動」(原爆孤児たちの育成のため、米国人が彼らを精神的な養子とし、精神的な親が年額20ドルの養育費を送るというもの)を開始。400名以上の孤児に対する支援を実施する。
また、原爆によってケロイドを負った若い女性たち(いわゆる「原爆乙女」)への義援金を募るため、谷本牧師とその家族をテレビの対面番組『This is Your Life』に出演させ、原爆を投下したB-29エノラ・ゲイ号の副機長だったロバート・A・ルイスと対面させた。この番組の大反響により5万ドルの寄付金が集まり、これにより1955年に原爆乙女25名が米国ニューヨーク市のマウントサイナイ病院において治療を受けることとなった。                  2003年、広島県の平和記念公園にノーマン・カズンズ記念碑が建立。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%83%B3%E3%82%BA

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ヒロシマからアメリカそして世界へhttp://info.linkclub.or.jp/nl/2005_10/anata.html
ノーマン・カズンズは、世界連邦運動の指導的立場だったとも書かれている      ❐http://pancreatic.cocolog-nifty.com/oncle/2008/12/post-dafa.html

日本基督教団のつながりか、番組サイトをみたら
元SEALDS/(社)リデモス理事の奥田愛基の父も別の日に出演していた。
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オバマ大統領の演説の中に謝罪の言葉はなかったが…?
近藤さんは「謝罪はいらっしゃることがそれを表していると思う」と話した。
http://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/abc/25645/512012/

  広島原爆を開発・投下映像を撮影した男   
  〜A man destroyed Hiroshima by Atomic-bomb visits Hiroshima~
アメリカでは原爆投下の支持する考えは根強く、2005年のTBSテレビ放送50周年 戦後60年特別企画 『ヒロシマ』で科学者のハロルド・アグニュー博士(グレート・アーティストに搭乗し、広島原爆の唯一現存するキノコ雲の映像を撮影した)は広島訪問の際には2人の被爆者からの謝罪要求を拒否し、「(もし、申し訳ないと思うなら…)思わない」「恐ろしい兵器の存在が戦争を抑止する」「真珠湾を忘れるな」などと完全に正当化しており、ポール・ティベッツも死ぬまでに原爆投下を肯定していた。


このマッドサイエンティストのハロルド・アグリューは死亡しており、
地獄に落ちてるでしょうが、動画では民間人も戦争に加担して罪があると正当化
していたが、米国は戦争中毒であり大量破壊兵器もないのに戦争、偽旗作戦でも戦争
をやりつづけている、オバマ政権からはじまった新型核兵器の核実験、
オバマのドローンでの殺戮はこれまでの大統領最多の回数と言われている。
そしてイラク、シリア、アフガニスタン、リビア、イエメン、ソマリア、
空爆した。オバマはフランスでは日本の原爆投下映像に拍手している。
そんな手が血に染まった人間の演説パフォーマンスで日本人は何も知らずに感動するというのは、原爆で亡くなった先人たちは報われないはずです。

このマッドサイエンティストのハロルドアグリューと
戦争犯罪人のオバマが共通しているのは、ロックフェラー創設のシカゴ大学ということアグリューはシカゴ大学の冶金研究所、オバマはシカゴ大ロースクールで
合衆国憲法を教えていた。シカゴ大といえば世界憲法シカゴ草案がある。
それは世界連邦運動で紹介されている。

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画像はポール・ティベッツ

ちなみに「エノラ・ゲイ」という名前は、
原爆を投下したパイロット(機長)ポール・ティベッツの母親の名前。

日米友好などという美談で一般の原爆被害者でなく、
アメリカ大使館が選んだメンバーに、
日本人の代表として許させたり、「世界平和」という言葉で誤魔化し
原爆での虐殺を有耶無耶にしようとするのが姑息である


世界連邦と原爆研究開発勢力の検証ついてはまだ続く➟


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